読書記録

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12冊目 歎異抄 著者 唯円 訳者 梅原猛 講談社学術文庫 2000

親鸞の教えが、弟子であった唯円の手によって、鮮やかに残されている歎異抄

 

この歎異抄と出会ったのは、自分が大学3年生の時。

 

その出会い以来、自分にとって歎異抄は、自分の人間観を形成してくれている大切な一冊となっています。

 

古典を読み解けるほどの教養はないので、書評においても、梅原猛さんの訳から引用していきたいと思います。

 

さて、歎異抄を読めば読むほど、自分は親鸞、そして唯円という人の魅力を感じざるを得ません。

 

仏教というのは、基本的に、修行の末に煩悩がなくなるという境地である悟りを目指す宗教です。

 

お釈迦様の到達した悟りという地点に到達したいという想いは、誰にでもあったのだろうと思います。

 

しかし、親鸞は、いくら修行を積んでも、煩悩が消えないという自らの弱さに悩んでいました。

 

何十年も修行をして、「私は悟った。煩悩は消えた」ということもできたでしょう。

 

そのように言っていた僧侶の方が圧倒的に多かったはずです。

 

しかし、親鸞は絶対にそのように言いません。

 

絶対に自分を誤魔化しません。

 

煩悩を消し去ることができない自分の弱さに、徹底的に向き合います。

 

自分は煩悩を消し去ることができない悪人であるという自覚を徹底して持ち続けます。

 

悪人正機

 

高校の倫理でよく習う言葉ですが、これは、悟れない自分がいるという勇気が必要となる考え方だなぁと思います。

 

「自分の弱さに正直であるという強さ」

 

自分はこの親鸞の姿に、自分を常に省みてしまいます。

 

子どもたちの前で、自分を誤魔化し、偽善で話してはいないだろうか。

 

自分に嘘をついていないだろうか。

 

親鸞という人間の自己点検が、全く同様に、自分を点検してきます。

 

歎異抄とは、自分にとって、自己点検をつきつけられるという、そんな書籍です。

 

親鸞は第二条で、いくら修行をしても悟ることはできなかったと打ち明けます。

 

親鸞は第三条では、「われらのごとき心の中にさまざまなどす黒い欲望をいっぱい持つものが、どういう行によってもこの苦悩の世界を逃れることができないでいるのを阿弥陀さまはあわれんで、あの不可思議な願いを起こされた」(第30頁)とも話します。

 

第九条では、極楽浄土に行く気がおきないとも言います。 

 

本当に、自分の心に対し、100%正直に向き合っているのです。

 

そういった親鸞の姿に、自分は心を打たれます。

 

さて、親鸞は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(第126頁)と言います。

 

この言葉も、自分の心を打ちます。

 

自分は欲望を制御しきれない悪人である。

 

しかし、そんな悪人でさえ私のことを救ってくれるのだ。

 

阿弥陀さまの存在とは、まさに自分を救ってくださるための存在だ。

 

親鸞の感動が聞こえてきます。

 

そして、自分自身に矢印を向けると、こんな自分でも無条件に受け入れてくれる存在がいること。

 

どうしようもない自分も肯定される感謝の念が湧き上がってきて、穏やかな気持ちになります。

 

歎異抄

 

自分はこの歎異抄を、完全に自分なりの解釈で読んでしまっています。

 

こんな読み方で良いのかなぁという想いもありつつ、「ひとえに自分のためなり」の気持ちで、歎異抄と出会い解釈しています。

 

「どこまでいっても、自分を誤魔化さず、自分に正直に生きること」であったり、「自分を無条件に受け入れてくれる存在に感謝すること」であったり、そんな生き方の根本部分を見直させてくれている歎異抄

 

周囲にいくら批判されようが自分の気持ちに正直に生きた親鸞という人間の一生に、自分は感化されているのだなぁ、と歎異抄を読むたびに思います。