読書記録

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19冊目 人はなぜ集団になると怠けるのか 著者 釘原直樹 中公新書 2013

集団が多数になればなるほど、一人一人の挨拶の声が小さくなる。

 

授業に集中しない生徒が増えてくる。

 

学校の先生ならば、誰しもが悩む部分であろうと思います。

 

そういった集団になるとサボる人間が増えていくという現象。

 

「個人が単独で作業を行った場合にくらべて、集団で作業を行う場合のほうが1人当たりの努力の量(動機づけ)が低下する現象を社会的手抜きという」(はじめに第2頁)と本書に書かれているように、本書はこの「社会的手抜き」について、それが発生する理由から対策までを書いた書籍です。

 

さて、この社会的手抜きがある前提で教育活動を進める場合、ある程度は社会的手抜きを認め、「そういうこともあるよねぇ」という大らかさも必要かな、とは思うのですが、生徒を伸ばすという観点からはそれだけではいけないよな、とも思います。

 

特に授業場面で社会的手抜きを認めてしまったら、授業は成立しなくなってしまいます。

 

ですので、できるだけ社会的手抜きの発生を抑えなければならない。

 

ではどうすべきか。

 

社会的手抜きは、集団の人数が多くなれば多くなるほど発生します。

 

したがって、40人学級の場合、教師1人対生徒40人という講義式の一斉授業では、集団が40人になるため、社会的手抜きが発生しやすい環境になるわけです。

 

教師が話しているだけの講義型の授業とは、生徒の立場に立てば、社会的手抜きの温床であると言えるでしょう。

 

グループ学習においても、社会的手抜きは多く見られるなぁと思います。

 

4人グループでも、課題解決に寄与しているのは、2人だけ。

 

あとは傍観者という場合は、往々にしてあり得ます。

 

したがって、社会的手抜きをなくすことを目的とするのであれば、教室にいる人数は同様でありながらも、生徒一人一人が集団ではなく、個として学習に取り組む場面を作っていくことが大切になるわけです。

 

例えばその最たる例は『学び合い』ではないかなぁと思います。

 

『学び合い』では、提示された課題の解決は最終的には個人がしなければなりません。

 

その際、「答えをそのまま教えない」などのルールをしっかり決めておくことで、簡単に手抜きをできる状況も排除しておきます。

 

そうすれば、誰もが学びの当事者となり、社会的手抜きが発生しづらい状況になるわけです。

 

授業を『学び合い』にするべきだ、というわけではなく、社会的手抜きがあることを前提とするのであれば、『学び合い』的な考え方は、社会的手抜きをなくすためにとても示唆に富んだ考え方であろうな、と考えるわけです。

 

グループ学習においても、「はい、グループで話し合ってね」というよりも、まず個の考えを持たせグループでは一人一人が見解を発表してから学習に入る、というだけで、社会的手抜きは減るかもしれません。

 

授業において学習活動を選択する際、結構自分の頭の中には、「最も社会的手抜きが発生しづらい学習活動はどれか」という思考は働きます。

 

「なぜ日本海側に雨や雪が降るのか、説明しよう」という課題も、教師が解説するよりも、隣の人と説明しあった方が社会的手抜きが生まれないなと思って、ペアでの説明を入れたりと、その時々で活動内容は異なりますが、自分の教育活動においては、絶対に外せない概念です。

 

日本では給食準備や清掃も学級の重要な仕事の一つです。

 

それを見ている際も、社会的手抜きが起こることを前提としつつも、社会的手抜きを減らすために何ができるか考える必要があります。

 

心理学の項目であるのに、教育についてばかり論じてしまいましたが、心理学的アプローチは教育活動に大きな影響を与えるということの好例になっているなぁと、自分は思っています。