1と2は絶版で、書籍としては3と4があります。
加藤実践として最も有名な「加曾利の犬」の授業(第103頁)を例に、加藤実践の魅力を、自分なりに考察していきたいと思います。
加曽利の犬の授業では最初に、加曽利貝塚で完全な形で発見された犬の遺体を例にし、「他の骨はバラバラな状態で発見されるのに、なぜ犬のみが完全な遺体で発見されるのか」という問いを提示します。
生徒はその問いに対する仮説を考え、同じ仮説を持つクラスメイトと班を作ります。
その後、班ごとに仮説を補強するために、調査を行い、調査結果を全体に説明し、「どの仮説が最も説得力があるか」を討論していきます。
最後は投票で、最も説得力のある仮説を選択するといった授業形態です。
この加藤実践の魅力を一言で言えば、「歴史を解釈する主体の育成」です。
加藤実践では、生徒を一人の歴史家にします。
歴史的な事象を、自分なりの解釈で捉え、その解釈の真偽を証明していく歴史家の過程を追体験させていくわけです。
「歴史を認識する」をゴールとするのではなく、「歴史を作り上げる」ことをゴールとするのが加藤実践です。
自分はこの加藤実践の発想に大きな影響を受けました。
あくまで歴史を捉えるのは、今の自分です。
今の自分を主体として歴史を捉えていこうという発想は、授業づくりの根幹的な部分にまで、影響を受けました。
そして、その歴史を主体的に解釈して捉えることが、民主的な社会の形成者を育成する社会科の大目標にもつながると加藤さんは言います。
「生徒を民主社会の担い手に育てるということは、民主主義の歴史や思想、政治制度などについて単に知識を持たせればそれで済むというものではない。どのような方向で自分の所属する社会や国家を改善・改革していくことが、一人でも多くの人権が保障され、豊かで平和な社会となるのかを、現実の社会の分析のみならずその歴史にまで遡って考察し、あるべき社会の実現をめざして努力する、意欲的でしかも思慮深い社会の形成者を育成するものでなければならない。また、現実の社会で起きている様々な出来事が潮流にたいして、それがどんなに些細な事と思われても、自分たちの社会の民主主義や平和にとってどのような意味をもっているかを的確に判断し、そこに独裁や専制、人権侵害や戦争への危険性を察知すれば、みんなで声をあげて反対できる能力と態度を養成する必要がある」(第90頁)。
そのためには、歴史的な事実をただ学ぶだけではいけません。
歴史的な事実を解釈し、どの事実が独裁や専制、人権侵害や戦争に結びついたのかを意味付けし、逆に、どの事実が民主的な社会や平和な社会の形成に寄与したのかを意味付けする。
「歴史を解釈する主体」として、歴史に向き合う必要があります。
その能力や態度の育成こそが、社会科という教科の最終的な目指す地点であるということ。
歴史教育は、その社会科の目標を達成する教育でなければならないということ。
そして、その具体が「考える日本史授業」であるということ。
それが、加藤実践の中心概念であると自分は理解しています。
そして、そのような加藤実践、素晴らしい理念だな、と思います。
ただ、課題もあるな、と思っています。
一つ目は、中学校の授業においては、加藤実践のような「歴史を解釈する主体の育成」を実現するための授業時間が実質的に足りないことです。
例えば、加曽利の犬の実践は、最低でも3時間きかります。
授業時数との兼ね合いを考えると、中学校での実施は難しいな、と思います。
二つ目は、生徒を歴史家にする授業が、生徒にとって本当に必要な授業なのか、という観点です。
将来、歴史家になる生徒はほとんどいません。
もちろん、民主的な力を育成すると加藤先生は述べますので、目的は素晴らしいな、と思います。
ただ、歴史家が行うような選択・判断力や批判的思考力は、他の事例に転移しないというエビデンスが示されています。
それでもなお、「歴史を解釈する主体」とて実施した授業が、「民主的な社会の形成者」に寄与しているかどうか。
事例によって様々ですが、検証は必要だな、と思います。
自分が教員として強く意識していることは、民主主義教育。
そもそも社会科のゴールは、主権者を育てるくしとですからね。
その具体としての加藤実践には多大な影響を受けましたし、批判的に検討を続けることも大切だな、と思います。