本書は、昨今の改憲論議を、改憲派と護憲派の憲法学者が論じた本です。
憲法学者のお二人の軸は二つです。
まず一つ目は、「権力は制限されねばならぬ」(第247頁)、噛み砕くと「国民が権力に対して、その力を縛るものが憲法」という憲法の根本原理です。
「権力というものは濫用されるし、実際に濫用されてきた歴史的な事実がある。だからこそ、憲法とは国家権力を制限して国民の人権を守るためのものでなければならない」(第25頁)という改憲派の小林さんの議論に、高市議員が、「私、その憲法観、とりません」(第25頁)と答えたエピソードは、事実であれば、恐ろしいことこの上ないな、と思います。
「民主主義だけでは、社会は不安定になるし、危うい方向にも向きやすい」(第41頁)という樋口さんの論理は非常に説得的です。
ナチスドイツが政権をとった理由も、民主主義の過度な重視にありました。
だからこそ、国家の暴走を避けるためにも、「憲法によって権力を制限し、権力に遵守させる」(第38頁)立憲主義がとられるわけです。
その立憲主義を、軽視しているのが、安倍政権という論理構成がなされます。
自民党の憲法草案には、「自由及び権利には責任及び義務が伴う」(第81頁)と記述されています。
しかし、そもそも憲法は、国家権力を縛るもの。
国民の責任や義務を、過度に規定するものではありません。
「国民が国家権力を縛る」のではなく、「国家権力が国民を縛る」憲法への逆行。
統帥権を持った天皇制を軸とした国家権力の超越的な権限により、暴走が効かなくなった先の戦争の歴史的な経緯を完全に忘れてしまっているな、と私は思います。
立憲主義という現代の国家形成に関わる基本概念を理解しなければ、その先の議論には進めないと思います。
お二人の軸の二つ目は、「『個人』を社会の価値の源泉とする」(第247頁)という近代国家の原則です。
「すべて国民は、個人として尊重される」(第67頁)と日本国憲法第十三条に規定させ、その権利は、「公共の福祉に反しない限り」(第67頁)最大限尊重されると書かれています。
しかし、自民党の憲法草案では、「すべて、国民は人として尊重される」(第67頁)と規定され、その権利は「公益及び公の秩序に反しない限り」(第67頁)最大限尊重されると書かれます。
「公共の福祉」違反を判断するのは、個人。
「公益及び公の秩序」違反を判断するのは国家権力。
個人の自由を規制する憲法も、国家権力を規制するという憲法原理に大きく反します。
本書には、「自由の敵には自由を認めない」(第42頁)という言葉があります。
私自身大事にしていることですが、歴史上、自由の敵になり得る最も大きな存在は、国家権力です。
もちろん、国家権力が私的な争いを制限し、個々人の自由や安全を確保している面は強くあります。
されがまさに、社会契約説ですね。
ただ、時に国家権力は暴走します。
だからこそ、その国家権力の権限を抑制する憲法の重要性は、計り知れません。
同様に、本書には、「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」(第120頁)という自民党憲法草案の言葉が紹介されています。
憲法を尊重するのは、国家権力であって、国民ではありません。
国民は、憲法を国家に「守れ!」と押し付けている立場です。
憲法への理解が欠けている日本の政治への危機感が、本書には書かれています。
私自身、改憲には反対ではありませんが、憲法の根本原理も理解していない政権でそれが為されるのは、恐ろしさしか感じません。
本書の指摘通り、「国家権力が自由になる憲法にだけはしてはいけない」と、切に願います。