教育とは、論じる人の数だけ、様々な論がある分野だな、と思います。
誰もがなんらかの教育を受けてきた経験があるため、自己の経験を絶対化して語ってしまうことが起こってしまいます。
その教育論議に対する問題点を苫野さんは哲学によって解決していきます。
哲学的に公教育の目的を定義していくのですが、その議論は、苫野さんが書かれている『どのような教育が「よい」教育か』で詳しく示されています。
その目的は、「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の、〈教養=力能〉を通した実質化」(第25頁)。
本書では、そのためにどのような教育を行えばいいのか、苫野さんなりの見解が書かれています。その見解の軸は、「学びの個別化」「学びの協同化」「学びのプロジェクト化」です。
まず「個別化」について。
「効果的な学びの方法は、人によっても、またその成長段階においても、時と場合によってそれぞれ異なっているものなのです。同じ内容を、同じ順序、同じペースで、また同じようなやり方で勉強させるのは、その意味でやはり非効率的な方法といわざるを得ないのです」(第75頁)という引用に表されるように、今までの日本の公教育の在り方は、非常に画一的でした。
教師による講義形式の授業。髪型・髪色や制服に関する厳しいルールなどの規律の徹底、集団行動の重視など、画一的な教育の在り方は、様々な面で具体的な指導事項となって表出されています。そして、この現状は、教育の個別化という点からは、かけ離れているなぁという印象です。
そうではなくて、できるだけ個別の課題に沿って子どもたちが個別に学習していく環境を公教育では整えるべきだというのが、「学びの個別化」という原理であると自分は理解しています。
続いて、「学びの協同化」について。「教師が教室のすべての子どもたちの実りある学びを一人で保障するのは、実は容易なことではないのです」(第107頁)。そのため、協同的な学習で、子どもたちが相互に学び合うことを協同化では目指します。
一見、この協同化は、個別化と矛盾しそうな視点ですが、「学びの個別化」と「学びの協同化」は全く矛盾しません。「学びの個別化」を達成するために、「学びの協同化」は必須となります。
「学びの個別化」とは、学ぶべき課題は、一人一人異なるということを前提とした概念です。
それは、教師が一斉に講義しているだけでは解決できません。それぞれが個別的に課題に向き合う学習活動がなければいけません。
そして、個別的に学習に向き合う際に、どのような学びが最も自分の課題の解決に繋がるのかは、人それぞれで異なります。一人で教科書を読み問題を解けば解決できる場合もあるでしょうし、そのような学びが得意な子もいるであろうと思います。しかしながら、一人では解決できない課題。他者の助けがあって初めて理解できる課題もたくさんあるでしょう。その際に、一人だけで学習に取り組む状況しか作れないのであれば、課題は達成できません。他者との協同が必要となります。
個別的な課題を達成するためには、他者と協同しなければいけない。これが、「学びの協同化」の基本概念であると自分は理解しています。
すなわち、「学びの協同化」とは、「学びの個別化」における課題達成をするための方法の一つであるという捉えです。
ですから、学び方は、個別であっても協同であっても、個人の課題が達成できればそれで良いのです。最終的に個別的な課題が達成できればどんな学びのアプローチをとっても良い。そして、その時に他者と協同することが認められている方が、学びの方法の選択肢が多い。あくまで、「学びの協同化」とは、学習方法の一つであり、「学びの個別化」が最終的に為されていなければ「学びの協同化」の意味はありません。
「学びの個別化」を達成するために「学びの協同化」が必要であるという理解をしっかりと持たなければいけないと強く思います。
さて、最後は、「学びのプロジェクト化」。「学びのプロジェクト化」とは、「さまざまなテーマを自分なりの仕方で探求し、自分なりの”答え”を見つけていく学び」(『公教育をイチから考えよう』第168頁)と苫野さんは定義されています。
まさに、この「学びのプロジェクト化」は、学習を与えられるものでなく、自分からするものにする発想。教育のあるべき姿だな、と思います。
「学びのプロジェクト化」に関しては、個別での学びとグループでの学び、2種類があると自分は捉えています。
個別での学びは、自分でテーマを決めて探求する学習。探求したい内容を好きなだけ探求する学び。本書で特に言及している学びのあり方です。
現在行われている学習ですと、総合的な学習の時間に親和性が高いと思います。ライティング・ワークショップなんかも、その類ですよね。社会科における卒業論文作成なんかも、ここにあたるかな、と思います。
それが、当たり前に行われている方が良い、というのが、苫野先生の提案なのだと捉えます。
プロジェクト化のもう一つは、グループプロジェクトです。自分は中学校社会科教師ですので、社会科とどうしても関連づけたくなりますが、これは、社会科と相関度が高いな、と思っています。
そもそも、社会に関わるほとんどのことはプロジェクトです。「商品開発」「政策立案」「発展途上国支援」などなど。こういったことを、社会科を中心に、教科横断的に生徒が自由に学習し、お店の方や政治関係者、NGOの方々などに評価していただき、場合によっては実行に移せたら、ワクワクするだろうなぁ、なんて思います。
『提案する社会科』との関連性も、とても高いな、なんて思っています。
さて、この「学びのプロジェクト化」「学びの個別化」「学びの協同化」は密接に結びつきます。
「解決しなければならない学習課題(学びのプロジェクト化)=(個での課題も、グループでの課題も含む)が、存在していて、その学習課題を解決するためには、個別で取り組んだり(学びの個別化)協同して取り組んだり(学びの協同化)、自分自身で様々な学習への向き合い方を選択できる」というのが、苫野さんが出された三つの見解の、自分なりの整理になります。
そして、この三つの学習の在り方が、「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の、〈教養=力能〉を通した実質化」を保障するというのが、本書の結論の一つです。
各人の経験によって何とでも論じうる教育という分野において、哲学的に教育の原理を示してから実践すべき教育の在り方を論じるというのは、教育に対する議論をブレさせないという点で非常に重要な視座であるな、と感じますし、非常に説得的であるなぁ、と思います。
ただ、その中で、検証しなければならないのは、「学びのプロジェクト化」「学びの個別化」「学びの協同化」は、もちろん目的と密接に結びついたものではあるけれども、あくまで教育手法ということです。
手法は、常に検証にさらされなければなりません。
本当に、「学びのプロジェクト化」「学びの個別化」「学びの協同化」を行うことが、「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の、〈教養=力能〉を通した実質化」につながっているのか。
ということですね。
学習内容によっては、「学びのプロジェクト化」「学びの個別化」「学びの協同化」をとるべきでないものもあると思います。目の前の生徒の実態によっては合わないものも出てくるかな、とも思います。教師の力量によっては、その学びをデザインしたことで、生徒の学びを機能させられない場合もあるかもしれません。
理想を持ちながらも、その理想を検証したり、目の前の状況に応じてゲートキーピングしていったり、そう言ったことが教師には求められる、と思います。
ただ、読むたびに捉えの変わる1冊なので、何度も読み返したい、と思う素敵な1冊です。